……まで秒読み

純粋性挫折日記

これからは日記を書きます

またあした

飲み会を抜けて終電で最寄り駅まで帰ってくると、バスはもうなかった。家まで歩いて40分くらい。途中の橋で、3人の男女が一一おそらく友だちどうし。ひとりが「私、こっちだから」と言うと、ひとりが「またあした」と言う。私は気づいてないフリをしてその横を通り過ぎ、10歩くらい歩いてからふと、ふと……‪またあした‪、と口ずさんでみたくなる。まるっこくて眠気を誘いそうな言葉だなと思う。

またあした……そういえば今まで生きてきて誰かに‪、またあした‪って、言われたり言ったりしたことあっただろうか。またあした……と口にする人生と、しない人生の、違いはどこで生まれるんだろう。どこが違ったんだろう。多分私は、明日以降も、‪またあしたなんて言うことはないし、人生のおわりまで言われることはない。

またあした……またあした……とそのまま数回口ずさみながら私はしばらく歩いて、このことはブログの記事になるかなと考えてから、文章の構成を練り始める。

恋愛について

歯が抜けてしまう夢をよく見る。
ぐらぐらするなあ、と気にしているうちに、乳歯でもないのに抜けてしまう。それですごく焦る。

社会に適応しようと一生懸命に努力していると、突然、社会の側から「きみはこちらには馴染めないよ」と謝絶の烙印を押されてしまう。そういった出来事を、いつも恐れている。

 

恋愛という感情、体験は、ぐらついている歯か、あるいは抜けてしまったあとの暗い隙間に似ている。

 

小学生のころ、恋愛とは「好きな人いるの? だれ?」という質問に答えることだった。そう訊かれたら、クラスの一人の名前を挙げればよくて、そうしたら周りは茶化して、自分は恥ずかしく感じればいい。これは分かりやすかった。しかし、思えばそのときから、恋愛はわたしにとってだけわかりやすく、ほかの多くの人たちにとってはそれほどわかりやすいことでもなかったのかもしれない。

 

小学生のころ、きっとわたしは、ちょっと浮いてた。
あんまり話しかけられることもなくて。幼いところもあったのだろう、3月生まれで、もしかすると何故だか教室に紛れ込んだ1学年下の子ども、みたいな立ち位置だったのかもしれない。

4年生の昼休みだっただろうか。クラスに人はまばらで、わたしは自分の席に座ってなにかしていた。そのときクラスの女の子が、一人「好きな人いるの?」ときいてきて「えーいないよ」って答えると、その子は「〇〇ちゃんでしょ」と言って、わたしは「違うよ」と答えたけど、それは当たっていた。内心ギクッとしたけど、その場はごまかして終わった。そのわたしに声をかけてくれた子は、中学に入って、学校のいじめがひどくなって、どこかへ転校していってしまった。隣のクラスだったから、そのときのことはよく知らない。

たまに、そのときの、昼休みの教室の、薄暗かったことを思い出す。
わたしがそのとき挙げた名前は、その子の名前ではなかったけど、わたしはその子のこともやっぱり好きで、自分に興味をむけてくれたことが嬉しかったのだと思う。そのときのことを今でも思い出す。
それは恋愛感情だったんだろうか。未分化な愛情が、性愛のようで、同時に優しさであったりして、結局それは胸の奥のなんだか温い感じでしかなかった。

 

中学生になると、恋愛は複雑化していく。あるいはわたし以外の人にとっては単純化していったのかもしれない。
しばらくすると、クラスの中でカップルができていく。そういうこともあるのかなと思って眺めていた。友達と「今日暇? 遊びに行っていい?」と約束をするのと、あんまり変わらないように思っていたのかもしれない。あるいは、わたしとは関係のない、わたしとは違う生き物が、なにかをしているな、と思っていたような気もする。
中学3年の1学期、よくつるんでいたグループは、アニメの話やゲームの話をしていれば一日が終わって、それで問題なかった。ただ、なかに1人、より社交的なグループと掛け持ちしてつるんでいるメンバーもいた。それで、あるとき、同じクラスとか隣のクラスのだれだれとだれだれが付き合ってるとか、フラれたとか、そういう話をしていたことがあった。衝撃的だった。衝撃的だったのは、今にして思えば、その場にいた自分以外の全員が、それを興味深げにきいて、そしてその恋愛に対する価値観や世界観を共有している、ということに気づいたからのような気がする。
そのときの感覚を、それからずっと、ひきずっている。
あるいは、もしかすると、そのときにわたしは、本当の恋愛感情というものから最終的に疎外されたのかもしれない。

小学生のときからわたし自身は、きっとなにも変わっていない。
小学生のときは恋愛感情を抱くことができていた。世界もそれを認めてくれていた。それからまったく同じように恋愛感情を抱き続けている。ただ、世界のほうが、あのときから、変わってしまった。新しい基準が設けられ、わたしの恋愛感情だったものは、そこから振り落とされてしまった。

だから、今でもわたしは、恋愛のことになると、困ってしまう。
わたしの中に時にある感情は恋愛感情なのに、分節化されず、原始的な混合状態にあり続けている。だからそれを恋愛感情でないことにしたらそうなるし、恋愛感情であることにしたら今度はそうなる。誰もわたしの代わりに決めてくれないので、自由ではあるのだけど、自由だからこそ困ってしまう。

「恋愛感情は加害になりかねないから、違うものだということにしておこう」。とかする。

 

一方で、より混乱を招かず、力強く、強力で、くっきりとした感情がそのそばにあり、それは孤独と名付けられる。実際孤独を感じ取ることができるのは、誰かがそこにいるときだ。

誰かと誰かと連れ添い歩いているときや、誰かが誰かによって幸せにしてもらったと話すとき、誰かが誰かがいることで安心できると話すとき。そういうときに孤独を感じる。孤独の基準は世界で不変のようで、恋愛感情みたいに、見る方向を変えて都合よくごまかすことを許してはくれない。孤独はどうしようもない。

ただ、孤独から恋愛を求める、というのはなんだかうまくいかないような気がする。孤独なときは本当に孤独で自分のことだけで手いっぱいになってしまうし、ほかの誰かと関係を結ぶ余裕なんてなくなってしまう。

だからまずは、ただただ、しっかりした人間になりたいと思う。しっかりしたっていうのは、しっかりしていて、だからモテるのだ、みたいな、そういう話ではなくて、まずは自分の人生のことだけで一生懸命になってしまうのがよいんじゃないかなと思う。これからなにをして生きるかとか、どういった人間になりたいとか、そのために誰とどう接してどう関係するか、といったようなことをしていくうちに、自分のことだけ手いっぱいにならないですむかもしれないし、そのときには恋愛がわかってきたり、誰かから好きになってもらえることもあるかもしれない。
希望的観測だろうか? そのときにはもう手遅れだろうか? 自分のより悲惨な側面を見ることができてないだろうか? もう27歳だしね(この年齢というのは、なんだかいろんなことがちょっと不安だ)。

まあそういう不安について悩むのは、この人生で散々やってきたことだし、もうそろそろいいんじゃないかな、と思う。

 

忘れた記憶

SVを担当してくれたカウンセラーから「過去のことを整理してみるといいかもね」と言われた。

私はずっと精神分析に懐疑的で来たけど、最近そこまで嫌うようなものでもないかと思うようになってきていたから、同意した。無意識に触ることで、なにか私が変化するのであれば、魔法のようで素敵だと思う。

過去の記憶に乏しい。私の人生は右に進めば左から消えていきもう決して戻ることのできない横スクロールアクションみたい。

多分あまり覚えておきたいような出来事がないのだと思う。

嬉しかった思い出で、今でも思い出せるのは、小学校6年の頃、クラスに密かに好きだった女の子がいたこと。初恋だったこと。その子と話せるだけで幸せだったこと。その年の修学旅行で肝試しがあって、くじ引きで決まった男女がペアになって手を繋いで歩いて回ることになったこと。そのとき一生懸命祈っていたら、本当にその子とペアになったこと。肝試しで歩いた林道で心臓がバクバク言ってたこと。でも後ろからくるペアがクラスのお調子者で、CMソングを高らかに歌い上げるので雰囲気はぶち壊しだったこと。でもそれでかえってホッとしたこと。戻ってきてから部屋でやった枕投げ大会は夢見心地でなんだかよく覚えていないこと。

私の恋愛経験はそこで終わりになって、あとは超自我に支配された日々がはじまるわけで、だからこの思い出は今の私には関係ないかもしれない。でも大切な思い出だから忘れない。初恋の、別に告白したわけでもなく一方的に好きで、それを隠したまま手を握ったことを成人を過ぎて何年もずっと覚えているのはきしょい気もするけど、どうなんだろうか。その辺の感覚が私には欠落している気がする。

 

じゃあ覚えておきたくない記憶はというと結構多い。全部抑圧しておいてくれと思うけど、断片的に検問をかいくぐって前意識の世界に侵入してきている。

小学校の最初の年の冬。縄跳びが盛んな学校だった、縄跳び開きの日に、靴を隠された。みんなが人生初の縄跳びに挑戦している時間、私は靴を探して途方にくれていた。どこかで私の知らない"ルール"が動き始めていた。得体のしれない心細さを、なにかが"削られているような感じ"を、感じていたはずだ。靴は結局下駄箱わきのゴミ箱から見つかった。犯人は誰だったのだろうか。先生は見つけようとしてくれていたのだろうか。下駄箱で途方にくれて泣いていた私の姿を斜め上の方から眺めている記憶だけが残っている。今こうして書き起こしながら、私はそのとき誰かが一緒になって靴を探してくれていたのではないかと思い出す。誰だったのだろうか。私の身長はずっとクラスで前から2番目か3番目だった。一緒に探してくれる友達なんていたんだろうか。思い出しながら、あまりにも彼が可愛そうだから作り出したのだろうか。

辛い思い出ばかり思い出せる。
食卓で牛乳をこぼしたとき父から全部舐めてきれいにしろと言われたのは何歳の頃だっただろうか。父が怒って私を冬のベランダに追い出したのは、私が何をしたせいだっただろうか。自分で食べたいといったあんこう鍋を残したせいでお尻を何回も叩かれたことは死ぬまで忘れない。父が激怒して土下座をしろと言われた屈辱も。中学校の頃、待合わせに遅れた友人にキレて私は父と同じように「土下座をしろ」と命令した。以降疎遠になって今でも会うたびに気まずい。抑圧しておいて欲しかった記憶なのに、はっきりと思い出せる。

小学校2年のとき、体操着袋がなくなって、結局校庭のすみのプール脇で砂にまみれて見つかった。と報告した。あれは結局違うところにあったのだけど、それを言い出せなくてプール脇で見つけたことにした。ほんとうはどこにあったんだろう。うっかり自分のロッカーに置き忘れていたのかもしれない。なんでこの記憶を今も覚えているんだろう。

小2のとき、野球でホームランとは四塁打のことだと言い張って、登校班のみんなに勘違いを指摘された。私は父から聞いたと思っていたが、実際はランニングホームランの説明と混ざっていたのだと思う。意地を張って言い張ったせいで、クラスから村八分にされた、と記憶しているけど、実際は別の理由があったのだろうと思う。その頃、私が公園に行くたびにみんながつれだってどこかに移動してしまって、私はみんながどこにいるか探して回って、クラスメイトの家のチャイムを押して回った。いざみんながいる家を見つけ出したとき、奥からすごく嫌そうな声が聞こえてきたのを覚えている、気がする。その頃から小5まで私には友達がいなかったと思う。

小3と小4の記憶はない。
ノロウイルスで運動会を休んだことだけ。
日々何をしていたのだろう、友達のいない放課後を。

小5で勇気を出して一緒に遊びたいとクラスの男子に伝えて、一緒に遊ぶようになった。友達ができた。なあんだ、って感じだった。私はみんなにライトノベルを布教して回っていた。又貸しで揉めたりしていた。みんなに貸そうと思って十数冊のライトノベルをランドセルに入れて登校していた。スマブラが流行っていたけど、ゲームを買ってもらえない家庭だった私は操作法もわからず、ずっと見ている役だった。マリオカートポケダンポケモンもモンハンも全部見ている役だった。5年生で転校してきたお調子者のクラスメイトの家が近くて、そこそこ友だちにもなれて、家に呼ばれて一緒にやったボンバーマンがとても楽しかった。その日の帰り道は、誰かが私の靴を間違えて履いて帰ってしまったと勘違いして裸足で帰った。

小6の頃、学年の不良児が体育の授業のとき、私を囲んでプニョプニョお腹だと私のお腹をつついて笑っていたことを覚えている。ずっと水泳してたから太ってるわけないのになと思ったけど言い返せなくて涙が出た。

そいつは中学に行っても同じ学校で、なにか色々された気がするけどなにも思い出せない。上履きや教科書になにかされるのを恐れて、私は毎日全部の持ち物を持って帰るようになってすごく重い思いをしたことだけ覚えている。

中2の一時期、そいつらに下校のたびに階段の最上段から突き落とされてたけど、うまく着地できて大丈夫だよ〜すごいだろ〜みたいなふうを装っていたのを覚えている。私は一緒に帰ってくれる人もなくて、帰り道1人でずっと自分はいじめられていない、惨めじゃないと考え続けていたのを覚えてる。中3で、数学が能力ごとにクラスが分かれていたのだけど、他の教室から戻ってきたときに自分の机のうえにうっすら「死ね」と掘られていたのを、知られたくなく擦って消そうとした。結局バレず、それ以降続くこともなかったので偶然だったのかもしれない。

中学のころ廊下を向こうから走ってくる女子にとっさに足をかけて転ばせ怪我をさせた。本当に、嫌いとかそういうのじゃなかったのに。今でも後悔している。彼女は覚えているだろうか。なんで足なんて出してしまったんだろう。彼女はどう思っているのだろうか。

中学のころ密かに好きだった(かもしれない)女子から同じ生徒会のよしみとしてバレンタインデーにチョコをもらったけど、手作りの食べ物を食べられない潔癖なところが当時あったせいで学校の近くの茂みにこっそり捨てた。申し訳ないなと今でも思う。相手は渡したことさえ覚えていないだろうけど。

中高一貫の高校に途中から入学した。9割が持ち上がりの学校で、友達を作ろうと焦っていたら後ろの席の2人が「友達って作ろうとして作るものじゃなくて、自然にできるものだよな」って話してたのを覚えてる。

高校の頃はなんかけっこう陰口を言われていた気がするけど、なにも思い出せない。

山を登りながらクラスメイトの悪口を言う部員に耐えられずワンゲル部を半年でやめた。

記憶には嫌なことばかり残っている。

書き出してみると、虐められていたかもと思う。でも虐められていたかを判断出来るほどの材料は記憶に残ってない。そのときの気持ちも。

思い出そうとすれば、私にも明るい記憶がもっとあるはずなのに。

小学校の最初の年、初めての友人ができた。彼は背が高くてちょっと変なやつだった。ある休み時間、ぼくたち2人はクラスメイトと混ざって遊ぼうとはしなかった。2人で校庭の隅にある焼却炉の陰に立ってなにかを話していた。休み時間の校庭の喧騒をそこから2人して眺めていた。
彼はいつの間にか転校してしまった。彼の転校を知ったときの記憶も、思い出すことができない。

 

 

記憶をたどり思い出しながら書き留めたことで、今の私はなにか変わるだろうか?

思い出して解釈したことで、必死に生きていた記憶の中の過去の私を私は殺してしまったような気がする。

言の葉の境界

「ゆるす」には、「許す」と「赦す」の2通りの表記の仕方がある。「許す」はなにか悪いことをしたときにもう責めないし咎めないようにするからねといったようなニュアンスがあり、「赦す」というのは相手の存在そのものから認めてあなたが何をしたとしても大丈夫だよ、といったような雰囲気がある。

でもそういう雰囲気があるというだけで、「いまあなたが言ったゆるすはどっちのゆるすですか?」と訊かれると、どっちだろう? と分からないことが実際には多分結構ある。

「許す」と「赦す」の違いはわかっているようで良くわからない。もっと言えば「許す」や「赦す」は「理解する」とか「諦める」とかともちょっと似ている。

 

理解することで相手を赦したことになることもあるし、赦しながら諦めることも、諦めながら許すこともある。許せないけど、赦すこともある。

「赦す」も「許す」も、よくよく調べてみると結構輪郭が曖昧だ。

 

真っ白い画用紙が直線によっていくつかの区域に区切られているのを想像して欲しい。隣り合うエリアは別の色で塗らないといけない。直線で区切られ、青の区域、赤の区域、黄色の区域といったように画用紙が区分される。

言葉はこれに似ている。言葉が世界に直線を引いて世界を区分けして意味によって色分けをする。ただ、言葉の境界はどうも画用紙の塗り分けほどくっきりとしない。 

赤と青の境界では紫色っぽい場所ができていて、どっちの領地に含まれるべきかという話になる。だからある意味言葉は領土に似ているかもしれない。国と国の間にどちらの領地か言い争いになるエリアがあるように、言葉にも領地問題がある。ただ、言葉は国土とは違って、そこで戦争になったりはしない。これは言葉が、なにかが損なわれるのではなく、なにかを与えるという性質を持っているからなのかもしれない。言葉は世界に意味を与え、人間に理解と平穏を与える。だから言葉と言葉の間では「どうぞどうぞ」と譲り合いが起きたりもする。そういうふうに考えると、言葉は分断された境界を色付けるものというよりも、薄く水に溶いた絵の具を真っ白な画用紙の上にポタポタと落としていくのに似ている。いくつもの言葉が画用紙の上で混ざりあい輪郭を委ねながら同心円状に広がっていく。

 

そんなふうに絵の具の雫のような言葉を用いるときに、ぼくたちは言葉にあえて少し広い境界を与えながら使用することができる。よくよく言葉の定義を調べると正確には用いるようなことができない場面でも、ちょっとだけズルしてその言葉を使ってみることができる。例えば、ほんとは愛なのかわからないけれどあえて愛と言ってみたり、自分でもゆるせているのかわからないけどあえて「ゆるした」と言ってみることができる。そんなふうに言葉の輪郭をごまかすように、あえてゆるく、あえて適当に、言葉を運用するというのはその言葉をゆるしたと言えるんじゃないか。ぼくたちが世界に触れるとき言葉を用いることを思うと、言葉をゆるすというのは世界をゆるすことなのかもしれない。こういうふうに書いてみせること自体が言葉をゆるしていることなのかもしれない。

 

本当はそういう意味ではないかもしれないし間違えているかもしれないと思いながら、それでもあえて言葉をゆるく運用して、つまりあえて言葉をゆるしながら用いるとき、そこには祈りがある。本当は違うかもしれないけれど、こういうふうに言葉を使うことで、世界をゆるせるのではないかという祈りがあるはずだと思う。言葉をゆるすとき、ぼくたちは祈っている。どうか言葉と、この世界は、ゆるされてほしいと。

完全

2023年6月6日(火)

今日、20時過ぎくらい、帰り道。ふと、川を見下ろした。

いつも気にもとめなかったけれど、川沿いの住宅の灯を受けて水面が黒く輝いていた。
それを見たときに、『なにもかも、もう、大丈夫なのだ』と思った。

生きていると日に日に誰かに教えたくなる小技が積もっていく。
その中でも本当に伝えたいのは、「あなたはあなたのままで、なにもかも、大丈夫ですよ」と、そのことだけなんだろうなと思う。
生まれてこのかた日々言葉の練習をしてきたけれど、いまだにそのたった一言の、短い、気持ちの伝え方もわからない。

祈り

ときどきすべてのものに対して愛を感じることができる瞬間がある。

それは疲れてそれでいて満ち足りた夜だったり、どこかのお店の店員がそれをしたとしても給料があがるわけでもないのに優しくしてくれてちょっとだけ資本主義社会の外で心が通じ合ったように感じたあとだったり、とにかく自分では制御できないのだけど、自分が完全になる瞬間がある。
そんなときはどんな怒りも一瞬で愛に変わるし、自分に優しくしてくれる人もきっと知り合えば互いに嫌いになるだろう人も、それから自分自身にも、すべての人間に優しくなれて、幸せになってほしいと感じる。空間も時間も越えて、この愛がすべての意識体に拡散していくような感覚に陥る。

この状態は制御できない上に、そこまで長く続かない。数ヶ月に一度くらいしかやってこない。

いわば完全な祈りの心理状態。

そういうときは大抵とても満たされた気持ちになる。
しかし同時に感じている思考がある。
「この祈りは『ライ麦畑でつかまえて』でいうところの“インチキ”なんじゃないか?」

この祈りは体験に基づかない。
行動に派生しない。
自分以外の誰かのためにものではない。

これは完全なる愛か、それとも欺瞞なのか。

 

 

「ふつう」になる

 4月から働き始めた。26歳でようやくフルタイムの労働。
 大きな進歩なのかもしれない。

 収入が発生し、できることが広がった。

 この1ヶ月で、いろいろなことに挑戦してみた。
 市民プール、ボドゲ会、オフ会、twitterのスペース、銭湯、お祭り、岩盤浴、アロマストーン、美術館、etc.…
 やってみると、意外と楽しい。

 

 

 今まで、特権意識とともに生きてきた。

 自分には、人よりも、考え悩む力があると思ってきた。
 端的に言えば自分は頭の良い側に属する人間だと考えてきた。
 そういう考えを持つことは恥ずかしいことなのかもしれないけど、今もそこまで変わってない。

 私は、あんまり多くの難しい本を読めない人間だった。
 何冊かお気に入りの本はあれど、いわゆる博学、といったふうではない。
 だから、「自分は”ホンモノ”ではない」とそう思いながら、それでも特権意識を捨てられずに生きてきた。

 この特権意識は、ひとつの防衛なのだと思う。
 他に誇れるところが、自己の拠り所となりうるほどの尖ったところが、ないから、「ひねくれている」ことをアインデンティティの依代にしている。私は、実際、「ふつう」を目指したら、4/10点くらいになってしまう人間なんだ。

 同年代の他の人みたいに、おしゃれや恋愛やレジャーを楽しまず、向上心を持つことや自分の存在に価値を付加しようと努力することを避け、物語や形而上的なことに没頭することで、私は私を守ってきた。

 

 まだまだほんの入り口なのかもしれないけれど、一歩外の世界に足を踏み出したような感じがして、自分の境界線がぐずぐずになり始めている感じがして、「いろいろなこと」に挑戦することは、ちょっと恐ろしい気持ちがする。