……まで秒読み

純粋性挫折日記

これからは日記を書きます

恋愛について

歯が抜けてしまう夢をよく見る。
ぐらぐらするなあ、と気にしているうちに、乳歯でもないのに抜けてしまう。それですごく焦る。

社会に適応しようと一生懸命に努力していると、突然、社会の側から「きみはこちらには馴染めないよ」と謝絶の烙印を押されてしまう。そういった出来事を、いつも恐れている。

 

恋愛という感情、体験は、ぐらついている歯か、あるいは抜けてしまったあとの暗い隙間に似ている。

 

小学生のころ、恋愛とは「好きな人いるの? だれ?」という質問に答えることだった。そう訊かれたら、クラスの一人の名前を挙げればよくて、そうしたら周りは茶化して、自分は恥ずかしく感じればいい。これは分かりやすかった。しかし、思えばそのときから、恋愛はわたしにとってだけわかりやすく、ほかの多くの人たちにとってはそれほどわかりやすいことでもなかったのかもしれない。

 

小学生のころ、きっとわたしは、ちょっと浮いてた。
あんまり話しかけられることもなくて。幼いところもあったのだろう、3月生まれで、もしかすると何故だか教室に紛れ込んだ1学年下の子ども、みたいな立ち位置だったのかもしれない。

4年生の昼休みだっただろうか。クラスに人はまばらで、わたしは自分の席に座ってなにかしていた。そのときクラスの女の子が、一人「好きな人いるの?」ときいてきて「えーいないよ」って答えると、その子は「〇〇ちゃんでしょ」と言って、わたしは「違うよ」と答えたけど、それは当たっていた。内心ギクッとしたけど、その場はごまかして終わった。そのわたしに声をかけてくれた子は、中学に入って、学校のいじめがひどくなって、どこかへ転校していってしまった。隣のクラスだったから、そのときのことはよく知らない。

たまに、そのときの、昼休みの教室の、薄暗かったことを思い出す。
わたしがそのとき挙げた名前は、その子の名前ではなかったけど、わたしはその子のこともやっぱり好きで、自分に興味をむけてくれたことが嬉しかったのだと思う。そのときのことを今でも思い出す。
それは恋愛感情だったんだろうか。未分化な愛情が、性愛のようで、同時に優しさであったりして、結局それは胸の奥のなんだか温い感じでしかなかった。

 

中学生になると、恋愛は複雑化していく。あるいはわたし以外の人にとっては単純化していったのかもしれない。
しばらくすると、クラスの中でカップルができていく。そういうこともあるのかなと思って眺めていた。友達と「今日暇? 遊びに行っていい?」と約束をするのと、あんまり変わらないように思っていたのかもしれない。あるいは、わたしとは関係のない、わたしとは違う生き物が、なにかをしているな、と思っていたような気もする。
中学3年の1学期、よくつるんでいたグループは、アニメの話やゲームの話をしていれば一日が終わって、それで問題なかった。ただ、なかに1人、より社交的なグループと掛け持ちしてつるんでいるメンバーもいた。それで、あるとき、同じクラスとか隣のクラスのだれだれとだれだれが付き合ってるとか、フラれたとか、そういう話をしていたことがあった。衝撃的だった。衝撃的だったのは、今にして思えば、その場にいた自分以外の全員が、それを興味深げにきいて、そしてその恋愛に対する価値観や世界観を共有している、ということに気づいたからのような気がする。
そのときの感覚を、それからずっと、ひきずっている。
あるいは、もしかすると、そのときにわたしは、本当の恋愛感情というものから最終的に疎外されたのかもしれない。

小学生のときからわたし自身は、きっとなにも変わっていない。
小学生のときは恋愛感情を抱くことができていた。世界もそれを認めてくれていた。それからまったく同じように恋愛感情を抱き続けている。ただ、世界のほうが、あのときから、変わってしまった。新しい基準が設けられ、わたしの恋愛感情だったものは、そこから振り落とされてしまった。

だから、今でもわたしは、恋愛のことになると、困ってしまう。
わたしの中に時にある感情は恋愛感情なのに、分節化されず、原始的な混合状態にあり続けている。だからそれを恋愛感情でないことにしたらそうなるし、恋愛感情であることにしたら今度はそうなる。誰もわたしの代わりに決めてくれないので、自由ではあるのだけど、自由だからこそ困ってしまう。

「恋愛感情は加害になりかねないから、違うものだということにしておこう」。とかする。

 

一方で、より混乱を招かず、力強く、強力で、くっきりとした感情がそのそばにあり、それは孤独と名付けられる。実際孤独を感じ取ることができるのは、誰かがそこにいるときだ。

誰かと誰かと連れ添い歩いているときや、誰かが誰かによって幸せにしてもらったと話すとき、誰かが誰かがいることで安心できると話すとき。そういうときに孤独を感じる。孤独の基準は世界で不変のようで、恋愛感情みたいに、見る方向を変えて都合よくごまかすことを許してはくれない。孤独はどうしようもない。

ただ、孤独から恋愛を求める、というのはなんだかうまくいかないような気がする。孤独なときは本当に孤独で自分のことだけで手いっぱいになってしまうし、ほかの誰かと関係を結ぶ余裕なんてなくなってしまう。

だからまずは、ただただ、しっかりした人間になりたいと思う。しっかりしたっていうのは、しっかりしていて、だからモテるのだ、みたいな、そういう話ではなくて、まずは自分の人生のことだけで一生懸命になってしまうのがよいんじゃないかなと思う。これからなにをして生きるかとか、どういった人間になりたいとか、そのために誰とどう接してどう関係するか、といったようなことをしていくうちに、自分のことだけ手いっぱいにならないですむかもしれないし、そのときには恋愛がわかってきたり、誰かから好きになってもらえることもあるかもしれない。
希望的観測だろうか? そのときにはもう手遅れだろうか? 自分のより悲惨な側面を見ることができてないだろうか? もう27歳だしね(この年齢というのは、なんだかいろんなことがちょっと不安だ)。

まあそういう不安について悩むのは、この人生で散々やってきたことだし、もうそろそろいいんじゃないかな、と思う。