……まで秒読み

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映画やゲームや小説などの感想を手当たり次第に書く、、、ことを目的に始めたいブログです。

黄昏時はうつに映える 〜『生きてるだけで、愛。』考察〜

黄昏時はうつに映える

 

 この記事は、『生きてるだけで、愛』『バーニング劇場版』のネタバレを含んだり含まなかったり、うろ覚えで適当なことを言ったりします。

 

 

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『生きてるだけで、愛。』考察

 ラストシーンについての考察。感想は以下のリンクから。

 

krsksk.hatenablog.com

 

 

 

『生きてるだけで、愛。』ラストシーンの謎

 幼い頃、寧子は母親が停電になると裸で踊っているのを見かけたといいます。

 そして寧子も黄昏時のリビングで、裸で踊りながらラストシーンを迎えます。

 このラストシーンは一体何を意味していたのでしょうか。

 

 

 

『生きてるだけで、愛。』ラストシーンの解釈

 私は大好きなラストシーンです。

 暮れていく夕日の光が差し込む部屋の中、電気もつけず、一糸纏うこともなく一心不乱に踊る寧子。

 このシーンは、映画全体を象徴する非常に重要なシーンだと言えるでしょう。

 

 

 寧子は、社会と自分を上手に繋ぐことができない人です。

 うまくバイトをやっていくことも、人並みに恋愛関係を続けていくことも、起きて普通の生活を送っていくこともできません。

 何一つできません。

 

 反面、寧子は完全な廃人になりきることもできません。

 人間として何もかもうまく行かないのに、それでもバイトを諦めません。

 料理もしようとします。

 恋愛もしようとします。

 それでも、人並みではないので結局失敗してしまうのです。

 

 人間にもなれず、人間になることもできず、そんな”私”は一体なにものだというのでしょうか。

 それが私がこの映画から読み取った「テーマ」でした。

 

 

 そしてこのラストシーンはこの「テーマ」に明確なアンサーを与えてくれます。

 黄昏時とは、光さす時間ではありません。しかし完全な闇でもありません。

 狭いアパートの一室は、窓の外に広がる社会からは隔離されています。しかし、そこは生活の場であり、社会とのつながりを残した場所でもあります。

 二人の間に流れる沈黙には、何かを意味する言葉はありません。社会的な行為としての会話は存在しません。でも、踊りはあり、踊りは寧子の感情を象徴してくれます。

 「服を脱ぐ」ということは社会的な”人間”ではなくなるということを意味しています。しかし、服を脱いでも、踊り、何かを求めようとする”私”はここに存在します。

 

 ラストシーン、あの暗がりのワンシーンは、

『社会に適合することはできない。それでも他の誰でもない”私”が今ここにいるのだ』

 ということを表しているのではないでしょうか。

 

 寧子は、トイレのウォッシュレットの一件を通して「私は”人間”でない」ということを改めて思い知らされることになります。

 そして、服を脱ぎ走るという一種のイニシエーションのような儀式を通して再度、「人間ではない、しかし私以外の何ものでもありえない私」を獲得した、
そういった意味合いのこめられたラストシーンなのでしょうね。

 

 

 

 

 

『生きてるだけで、愛。』と『バーニング劇場版』の共通点

 『生きてるだけで、愛。』と『バーニング劇場版』このほぼ同時期に公開された映画には不思議な類似点があります。

 それは女性が全裸で踊る、ということです。

 そして、両作品においても、踊っている女性は、社会にうまく馴染めず、社会に何かを求め、そして自分を取り戻そうとしている(ある種抑うつ的な)女性です。

 さらに、両作品において、踊りは黄昏時に行われます。

 

 

 

 抑うつと、黄昏時と、裸と、踊り。

 これらの不思議な調和はどこから生じるのでしょうか。

 

 黄昏時とは、誰彼、誰そ彼と言って、向こうからやってくる人が誰であるのかわからなくなるようなそんな暗さの時分をさすのだと言います。

 黄昏時において、他者が一瞬、消失し、そして自分だけがそこに残されるのです。

 この”孤独感”こそが非常に抑うつ的であるように私は思います。

 

 女性の裸体とは、現在社会においても多く、客体化され、消費されるものであるでしょう。

 しかし、黄昏時の他者消失において、その”見られる私”もなくなります。

 黄昏時において女性は誰からも消費されることのない私自身の裸を取り戻すことができます。

 

 そうして、世界から取り残されてひとりぼっち、私たちは”私”を探し求めます。

 黄昏時の暗闇の中に。

 悲しみと孤独を抱えながら。

 その姿は、はたから見れば不思議な踊りに見えることでしょう。

 

 

 

 

 

祈りコレクション

好きな「祈り」シリーズ

 

 いろいろな作品で、いろいろな形で「祈り」は描かれています。 

 この記事では「祈り」を集めてみようかなと思います。

 私の好きな名言とか、そんな感じです。

 

 

 

舞城王太郎好き好き大好き超愛してる』から

 愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちに皆そろって幸せになって欲しい。それぞれの願いを叶えてほしい。

祈り:
真に到達することは極めて困難であることを知りながらも、それでも他者や自身の幸福のために願わずにはいられず、発することでほんの僅かであっても何者かを救ってくれる可能性を信じることから生じる言葉。(自分定義)

 本当は祈り以外何もいらないのです。

 そう思います。たまに。

 世界の中で唯一、アプリオリに、内在的に、本質的に価値を持つものそれが祈りなんじゃないかなと思います。

 毎日祈りながら生きていきたいです。

 祈りなら生きて、祈りながら死んでいきたいです。

 人間の生まれてくる意味って、多分祈ることにあるんですよ。

 

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

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田中ロミオCROSS†CHANNEL』から

自分のためでいい。自分のため、人を大切にして構わない。

明日……少しはましな自分になるために。

「祈り」 は偽善的だと思う人もいるんじゃないかな、と思います。

 祈るということは、何もしないということでもあるから。

 祈っただけで、何かをやり遂げたような気分になるようなことでもあるから。

 でもそれでいいのだと思います。

 私は偽善的な祈りから逃げようとは思いません。

 私は、私のために、人を愛します。

 でもそれは決して偽りであるということと同義ではないと思うのです。

 

CROSSCHANNEL ~For all people~ (通常版) - PS Vita

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ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』から

そして、かりにおまえが光を与えながら、それでもお前の光のもとで人々が救われないことに気付いても、心をしっかり保ち、天の光の力を疑ってはいけない。たとえ今は救われなかったにしても、いずれは救われるのだということを信じるがいい。そしてそのあとも救われなくとも、彼らの息子たちは救われるだろう。なぜなら、おまえの光は、たとえお前が死んでも消えることはないのだから。正しい人は去っても、彼の光は残るのだから。 

 祈りとは無力なものです。

 祈っているだけで良くなることは少ないです。

 でもすべては祈ることから始まります。

 そして祈ることは、それ自体が、祈りであるというだけで”光”なのです。

 ゾシマ長老は死後の救済や、神の存在によってそれを示します。

 しかし、たとえそれらを信じていなくても良くて、なぜなら”祈り”は自分の為の物であっても良いとCROSS†CHANNELが肯定してくれるからです。

 ビバ祈り。

 祈りは叶わなくても良い。無力でも良い。自分の為でも良い。

 私にとっては、そんなものになってきました。

 

 

カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

 

鷲崎健『ワルツ』から

例えば今日出会ってった全ての 僕の視界にいた人よ

願わくは全員の胸に ふさわしい歌 響きますように

 

  たまに訪れる本当に幸せな時間というものがあります。

 それは、世界の誰一人も憎むことなく、醜いも美しいも全てを受け入れて愛せるように錯覚する瞬間のことです。

 道端にポイ捨てされて転がっている空き缶にも、酒臭い匂いを漂わせているサラリーマンや大学生にも、全てを抱きしめて今すぐ愛していると言いたくなるような瞬間です。

 でもそれはいつもじゃなくて、自分が疲れ果てていた時とか、そういう時だけに訪れます。

 普段はそんな聖人になんてなれなくて、自分のことも、世界のこともなにもかも嫌いなのにたまにそういう時間に入れることがあります。

 

Singer Song Liar

Singer Song Liar

 

 

 

 

J・D サリンジャーライ麦畑でつかまえて』から

Anyway, I keep picturing all these kids playing some game in this big field of rye and all. Thousands of little kids, and nobody's around―nobody big, I mean―except me. And I'm standing on the edge of some crazy cliff. What I have to do, I have to catch everybody if they start to go over the cliff―I mean if they're running and they don't look where they're going I have to come out from somewhere and catch them. That's all I'd do all day. I'd just be the catcher in the rye and all. I know it's crazy, but that's the only thing I'd like to be. I know it's crazy. 

 

とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしてるとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない——誰もって大人はだよ——僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ——つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんてみやしないだろう。そんなときに僕は、どっからか、さっととび出して行って、その子を捕まえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてるってことは知ってるよ。でも、ほんとうになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げているってことは知ってるけどさ。 

 純粋なもの。純粋な私。

 誰にも批判されなくって、誰も傷つけなくて、ただいるだけで誰かの幸せにつながっていくような私。

 そんなものに憧れるけれど、それは幻想でしかなくて、わかってるんだけどそう願わずにはいられないという気持ち。

 その全てが込められた美しい文章だなと思います。

 私が今まで読んできた小説の中で一番好きな文章をあげろと言われたらこれをあげると思います。

 

 ライ麦畑についての私の感想はここでまとめてるんで(天気の子のネタバレこみですけども)よかったら見ていってくださいな。

krsksk.hatenablog.com

 

 

The Catcher in the Rye

The Catcher in the Rye

 

 

 

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

 

 

 

 

瀬戸口廉也『キラ☆キラ』から

聴いてください。命をかけて演奏します。
この、くそったれな世界に、精一杯の愛をこめて。

 本当のことを言うと、この世界はくそったれです。

 理不尽でできています。

 努力しても報われないし、生きていても誰も褒めてくれません。

 努力すればするほど、蟻地獄に捕まったみたいにズルズルと底の方に引きずられてしまいます。

 もう後がないんです。

 でもだからこそ、心の底から世界を愛することができるのだと思います。

 

キラ☆キラ

キラ☆キラ

 

 (商品リンクなかった……)

 

 

 

黒澤いずみ『人間に向いてない』から

 重大なネタバレになる部分に「祈り」が込められているため引用できません。

 分量的にも難しい。

 でも壮絶な祈りです。

 そして、その文章を小説として世に出すということ自体が祈りになっているという珍しいケース。

 未読でしたらぜひどーぞ。

 

人間に向いてない

人間に向いてない

 

 

 

 

元長柾木 作詞『Kiss the Future』から

オートマトンじゃなくて

人に進化して

君に向かうことができれば

恋の希望がある

目を閉じた先に

断絶の祈りの果てに

 生きるということは、いつも一人でしなくてはいけないことなので

 一人の世界というのは何もない世界ということなので真っ暗です。

 そんな暗闇の中に一縷の光が見えるとしたら、それはやっぱり祈りなのだと思います。

 

 

 

王雀孫『俺たちに翼はない』から

世界が平和でありますように!

 お手軽簡単インスタント「祈り」。

 自己満足!

 

俺たちに翼はない (通常版) - PSVita

俺たちに翼はない (通常版) - PSVita

 

 




あなたの”好きな祈り”もありましたら、ぜひ教えてください。

 

 

 

中国SF『三体』感想 〜破滅願望・反出生、あるいは人類愛〜

中国SF『三体』感想 〜破滅願望・反出生、あるいは人類愛〜

 

 

三体

三体

 

 

 

 

 

◯『三体』感想

 正直なところ、微妙だった

 

 抑圧に対する静かな怒りが、他では味わえない余韻を残すケン・リュウ『紙の動物園』を読んで感動したりして、中国SFすごい!となり(ケン・リュウは中国系アメリカ人だけど)次に読んでみたのがこれ。

 各所で絶賛されており、めちゃくちゃ期待しながら読んだんだけど、正直微妙だった。


 プロローグから『星を継ぐもの』や『航路』のように未知の世界を科学的な技法で切り開いていく展開かと思ったのだけど、物語は二転三転。

 

「技術は明らかに”SF”的なのに道徳的には全然革新的じゃない地球外知的生命体」
という設定は面白くなくはないんだけど、私のツボではなかったかな……。

 

 

 

 

◯『三体』と破滅願望

 『三体』は人類全体に対する破滅願望を扱った小説だ。

 

人類なんて滅んじゃった方がいいよ」という思想。

 

 反出生主義のお友達みたいな思想だ。

 

 

●『地球三体協会』と破滅願望

「地球三体協会」には君臨派と救済派があって、
君臨派は三体文明にこの人類をなんとかしてもらいたいと思っているらしい。

 

 

 ただ、この「なんとかして欲しい」には作中でも何通りかのヴァリエーションがある。

 

⑴文潔の父が、その崇高な思想にも関わらず辱められ殺されたこと。
 文潔自身も長く抑圧の時代を送り、苦しい日々を過ごしてきたこと。
 その他多くの人が、その”生存”故に、日々”悪”に苦しみ、ままならないでいること。

→ 人間は生きている限り、その理不尽な苦痛から逃れられない。

⇒ 故に、より高位な存在によって、人類の苦しみを根元から絶って欲しい
 (ETO設立までの文潔の思想)

 

(1.5)文潔の父が、その崇高な思想にも関わらず辱められ殺されたこと。
 文潔自身も長く抑圧の時代を送り、苦しい日々を過ごしてきたこと。
 その他多くの人が、その”生存”故に、日々”悪”に苦しみ、ままならないでいること。

→ 人間は生きている限り、その理不尽な苦痛から逃れられない。

⇒ 故に、より高位な存在によって、人類を管理して欲しい
  (後年の文潔の思想か?)


エヴァンズは、中国で植林を続けたが全て無為に終わってしまった。

→ 人類はその存続の限り他の種を食い尽くす、地球にとっての害虫である。

⇒ 故に、より高位の存在によって、害虫たる人類を滅ぼして欲しい。 
  (エヴァンズの思想か?)

 

⑶救済派は、三体文明が地球に降り立っても、
 せめて自分の子孫だけでも生き延びて欲しいと考えている。

⇒ そのためには、人類が支配されてしまっても構わない。

 

 つまり、大まかには、

・人間は生きているだけで苦しみを産むから滅ぼして欲しいという思想

・地球にとって人間は外だから滅ぼして欲しいという思想

・自分のために、他の人類には滅んで欲しいという思想

がある、っていうこと。

 

 

 

●「三体文明」と破滅願望

 この小説の面白いのは、
三体文明側にも同じように自分の種を滅ぼしたいと考える登場人物が描かれている
というところだろう。

 

 

 1379号監視員は、三体世界の元首との問答の中で以下のようなことを言う。

 

❶移住先が見つかれば自分は用なしになってしまい自分は殺されてしまう

⇒ そうならないためには、三体文明がどうなっても構わない。

 

❷かつて自分が飢えたとき、他人のものであろうとも奪って食ろうてやろうと思った。

→ 三体文明もまた、同じように地球を独占しようとするだろう

⇒ それは正しいとは思えない。

 

❸三体世界の人生にも精神にも、生存のために戦うこと以外に何一つもない。

→ 三体世界には、文学も芸術も美の追求も、娯楽もない。

⇒ こんな希望もない文明に生存する価値はない

 

 

 とまあ、地球側の”破滅願望”と対をなすような問答がなされている。

 

 どちらの星でも同じように”破滅願望”を抱えた人がいて、
同じように 独断で通信を飛ばした。

 

 でも、科学技術の違いからか、ちょっとしたボタンの掛け違いからか
惑星間戦争というゲームは三体側がちょっとだけ有利なところからスタートとなるという。

 

 このスケールが大きいんだか矮小なんだか分からないようなストーリー展開は星新一ショートショートあたりにありそうで、なかなか面白い。

 

 

 

人類は滅びたほうがいい 
 〜でもそれは人類が害をなすからではない〜


 『三体』には以上のように3通りの”破滅願望”が描かれる。

 

 で、どうしてわざわざそれを記事にしようと思ったのかというと、
その3通りのうち⑵と⑶は同一のものにすぎないのではないか
ということを読みながら感じて、それを文章にしておきたいと思ったから。

 

 

●エコロジストの独善

 「人類は地球に害をなす、故に滅びた方がいい」 という考え方と、
「自分が助かるためには人類が滅びてもいい」という考え方には、
実は同じ欺瞞が潜んでいる。

 これはここだけの内緒の話。世界の秘密。

 

 だって、どっちも「他の人の立場に立って考えよう!」っていう小学生で勉強するような基本的な道徳原理さえ踏襲できてないんだもの。

 

 

 

例えば、

「人類が地球上の他の種を滅ぼしている、故に人類は滅びた方が良い」

という主張がある。

 

しかし、この主張は非常に欺瞞に満ちている。

どうしてかというと、
種が生存することに意味を見出しているのは人類だけだから
だ。

 

この主張をする人は、
滅びゆく動物や植物などの種がどのように感じているのかを全く考慮していない。

とっても独善的だ

代わりに私が教えてあげよう。

”無”だよ、きっと。

だって滅んだ動物も植物も滅んじゃったら何も感じられないからね。 

 

 

●反出生主義者の人類愛

人類は滅んだ方がいい。

それは人類に対する絶望であり、同時に深い人類愛からくる思想だ。

 

人は生きながらにして苦痛を撒き散らし続ける。

人類がいるから働かなくてはいけない

社会があるからあるから社会不適合者が現れる。

階級があるから抑圧があり、弾圧がある。

 

これは資本主義だろうと共産主義だろうとなんであっても変わらない。
”普遍的な苦痛”だ。

 

歴史を見ても、全ての人類が幸せであった時代など存在しない。

苦痛とは人類自体が背負う原罪に他ならない。

 

誰一人苦しまない世界になって欲しい。

それは何よりも深い人類愛。

その唯一の解決策が、人類の滅亡なのだ。

葉文潔もそう思ったんじゃないかなあ。

 

この苦痛から解き放たれるためには、おそらく人類がいなくなるしかない。

(この思想、なんかアブナイ感じがするぞ)

 

 

 

 

 

紙の動物園 (ケン・リュウ短篇傑作集1)

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星を継ぐもの (創元SF文庫)

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レディ・プレイヤー1(感想)〜そして『レディ・プレイヤー2(続編)』へ〜

オタクたちに問いたい!
こんな映画のどこがよかった!?
〜今更ながらの
レディ・プレイヤー1レビュー〜

 

レディ・プレイヤー1(字幕版)
 

 

何故か評価されたクソ映画
『レディ・プレイヤー1』

SFとは時に未来の世界だけではなく、未来の、新しい”思想”を与えてくれるもの。
レディ・プレーヤー1にもまた、そういった期待をしていた。
で、蓋を開けてみると……

この映画が描いていたのは、
今でさえ古臭い化石のような思想だった!

それなのに絶賛するオタクの方々たち 。
「この映画はオタクによる、オタクのための映画だ!」
えー、いったいどこを観てたらそんな感想になりますか?
 
 
 
じゃあ、こっからは、この映画の残念だったポイントを一つずつ上げていきますね!
 
 
 

●残念ポイント1:
  リアル・エンカウント


 彼らはリアルでエンカウントした時にアバター名ではなく本名を明かす
 しかし、今でさえそんなことは誰もしない。
 どんなに親しい仲であってもオフ会で本名を晒したりはしない。

 それは、必ずしも相手を信頼してないからではなく、
 リアルな世界の名前よりもアカウント名のほうが自分の本質を捉えているからだ
 垢名のほうこそが”私”なんだ。
 

 この描写を見るだけでも、この映画において、
バーチャルよりもリアルの方が優位だと信じてることが良くわかる
 
 
 

●残念ポイント2:
  アバターとリアル


「好きになった相手の、リアルの姿が酷かったら?」と作中で主人公は
葛藤する。
 アバターで好きになった相手、でもリアルの姿が自分の予想と違ったら。
 それでも愛せるのだろうか?

 仮想世界と現実世界を舞台にした作品ではよくある展開。
 ここから、
 リアルで会ってみると予想とは違う姿
→はじめはビックリするけれど、話しているうちにいつもの相手だと気づく。
 という展開が来るのかな〜と予想しながら観ていると…

 少し痣がある美女!

 いや、確かに痣があるというのは本人にとっては大きなコンプレックスともなりうる重大な身体的特徴かもしれない。
 しかし、映画という舞台では、もう少し大きなアバター
リアルのギャップ、それを受け入れる主人公を描いて欲しかった。


 むしろ中身男でも良かったと思うけど……。

 

 

●残念ポイント3:
別にゲームしたいわけじゃねーし

  すごく堂々としているため、誰もツッコミをいれようとしないが、
  主人公格の誰もが

       「ゲームをしたくてゲームしてるわけじゃない」

                             のである。

  主人公は、スラムのような街から這い上がるためにゲームをし、
  ヒロインは父の仇を伐つためにゲームをする。

  ゲームは!ゲームが楽しくてやってる人はいないんですか!?

 

  敵もゲームを金儲けの道具としてしかみていなければ、
  主人公もゲームを金儲けの道具としか見ていない。

 

        お前ら全員まとめて”ゲーム”から出ていけよ!

 

 

 

●残念ポイント4:
リアルのほうがVRより勝ってる!?

 終盤になると、直接「リアルの方がバーチャルよりも勝っている」という発言が出てくる。それも割と唐突に。

 どうも、リアルのほうがご飯が美味しく食べられたり、リアルな刺激が
あるから良いらしい。

 ふーん、そっか。。。(興味ない)

 

 いや、なんだよその唐突な現実賛歌はよ!

 RDR2で狩りを終え、金策を終え、1日終わった後にベースキャンプに
戻ってきて食べるあのシチューの美味しさに、
現実で食べるシチューの美味しさが勝てるものなのかなあ。

 私にはわかりません。

 

 特に根拠もなく、唐突に現実はより現実的だから良い!とする謎の論調。

 ゲームを愛するものであれば、
 こんなふざけた主張にこそ異議を申し立てていきたいものなのですが……。

 主人公はオタクでもなく、ゲームを道具としてしか見てないので
当然そんなことはしません。

 

 

 

●残念ポイント5:
  ゲームは1日1時間まで
       〜最悪の結論〜

 ここで、最悪のラストシーンを正確に引用しておきましょう。

 

      

 (主人公、ヒロインと抱き合いキスをしながら)

「3つ目の変更はいまいち受けなかったけど、火曜日と木曜日はオアシスを休みにしたんだ。

 まあ、確かにちょっと変なプランだけど、人には現実で過ごす時間も必要だよ。

 だって、ハリデーがいったように現実だけが本当の意味で、

 

   リアルなんだ(ダドンッ!)」

 

 は?

 どう好意的に解釈しても、

俺は現実で彼女できて最高だよ! 
オタク君たちもゲームなんかしてないで、さっさと外に出て彼女とか作りなよ」

 と言わんとしているようにしか聞こえません。

 というかそういうことが言いたいのでしょう。

 

 いや、恋人とかよりもゲームのほうが大事なんですが……

 価値観は人それぞれ、他の人の価値観を尊重しましょうね!

 


 そして、極め付きは、これ。

      「火曜日と木曜日はゲームはおやすみ!」

 はい、出ました。

 「ゲームは1日1時間まで、平日は禁止で休日だけね!」という小学生の頃親からよく言われるやつです。

 オタクの方たちはそれでいいんですか!?

 本当にいいんですか、週二日しかゲームできなくても!?

 いいなら、いいです。私は嫌です。

 

 だいたい「ルールは破るためにある」的な発言をしてるにも関わらず
自分でルール作っちゃうのはどうよ。



 リアルで人と関わるのが苦手な人のために作られたゲームが結局、
リアルでの人間関係が得意な人によって継がれる。
 主人公たちは、創始者がどんな願いを込めてオアシスを作ったのか
まるで理解してない。
悲しみの詰まった映画です……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

逆転の発想の神映画
『レディ・プレイヤー1』

 今あげたような批判は可能でしょう。
 しかしどうでしょうか。
 このご時世、
 そんな古臭い現実最高!論を真面目に語る映画が作られるものでしょうか?
 許されるものでしょうか?

 そう、この映画はおそらく、
          主人公を盲目的に支持してはいない
  
 バーチャルよりも現実が良いという思想に疑問を投げかけているのかもしれません。
 あえて、一見肯定的な立場から。
 
 
 

◯逆転の鍵1:「バラのつぼみ」

 映画中で「バラのつぼみ」という言葉が出てくる。
 「バラのつぼみ」は『市民ケーン』において、

       絶対的な権力者が持つ見つけ出してほしい秘密の象徴だ。

 

 作中では、ゲームの創始者が隠したイーストエッグを指している。
 しかし、「バラのつぼみ」にはメタ的なメッセージが込められているのではないだろうか。
 つまり、スピルバーグがこの映画に隠した"イーストエッグ"

 仮想より現実の方が優れてるなんて考え方は間違っている、というメッセージだ。

 

 

 

◯逆転の鍵2:不自然な台詞

 見ていて気になるセリフがあった。

「あなたはアバターじゃないよね?」

「違う」

「ハリデーは本当に死んだの?」

「死んだ」

「じゃああなたは何?」

「さよならパーシバル、ありがとう私のゲームをプレイしてくれて」あなたは死んだのですか? そうだ」

 

 このやり取りには、どう解釈すべきだろうか。

 私は確かに死んだ、しかしゲームの中で私は確かに"生きている"

という主張が込められていたのではないだろうか。

 リアルの素晴らしさを主張する裏で、そっと、分かりにくくではあるが、
 VRにおける生の肯定を忍ばせている。

 

 

 

◯逆転の鍵3:
   レディ・プレイヤー2

 独裁者によって支配されていた世界で革命を起こし、そして新たに頂上に収まったのは別の独裁者だった。

 オタクにとってのディストピアはまだまだ始まったばかり。

 それが『レディ・プレイヤー1』の世界だ。

しかし、話はこれで終わりではない。

 

 

 本当にうだつが上がらず、

 ゲームの中でしか生きる歓びを見つけられない、

 それでも精一杯ゲームを愛している者達の、

 決して主人公にはなれない2P側の者達による、

 逆襲の物語。

 

 『レディ・プレイヤー2』

 製作決定!

 

 (したらいいなあ)

 

『天気の子』を『ライ麦畑でつかまえて』から読むんだったら

天気の子 考察
〜『ライ麦畑でつかまえて』から読むんだったら〜

 

「天気の子は、新海版『ライ麦畑でつかまえて』だ」って意見が世の中に出回ってる
みたいだけどそれは違うんじゃない? という考察です。

違う……よね? 

 

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●『天気の子』における『ライ麦畑でつかまえて』の扱われ方は…

 小説『ライ麦畑でつかまえて』(村上春樹訳が好きじゃないのでこの表記で)が
映画中(多分)3回出てきます。

 しかし、読了したシーンは映されることがなく、3回目の登場シーンにおいても
読みかけ」のままです。

 この「読みかけ」であるということが、今回の映画を象徴してる、のではないか
と思います。

 

 

●『ライ麦畑でつかまえて』がどんな小説かというと…

 『ライ麦畑でつかまえて』は子供が象徴するようなイノセンス大人が象徴する
ような”インチキ”の対立を描いた小説です。

 イノセンスとは、本心からやりたいことをやること他者を手段として扱わない
こと愛すること純粋であること、そして”持続可能ではなく現実的ではない
もの”で、
 インチキとは、他者を手段とすること本当はやりたくないことを自分にも偽って
やりたいように見せること見栄を張ること、などを意味しています。

 また、イノセンスとインチキとは、社会、というふうに言い換えることもできそうです。

 私が本当にやりたいことこうであったらいいことと、
 社会の中のルールままならないこと
として言い換えられるのではないかということです。

 さらに、私と社会の関係性は、理想現実(やりたいこととままならないこと)といった言葉にも置き換えることができそうです。

ライ麦畑でつかまえて』において、主人公はインチキばかりの世の中、そして
インチキになりつつある自分自身から逃れ、イノセンスに救いを求めようとします。

 しかし、結果として”インチキ”の中にもなかなか捨てたもんじゃない人間の優しさ、みたいなものが紛れていることに気づき、最後には社会に帰っていくわけです…

 

 

ライ麦畑にNOをつきつける『天気の子』

 『ライ麦畑でつかまえて』では、主人公は、インチキに反発してイノセンスに救いを求めて家出をするのですが、
最後にはインチキ、つまり社会の中にも”美しいもの”を見出し、イノセンスとインチキが両立する、つまり私と社会が共生する世界に戻っていく、といった結論を出します。

 しかしながら、『天気の子』の作中においてこの結論部分まで主人公が読み終えることがありません。

 これはつまり、『天気の子』は、『ライ麦畑でつかまえて』の「社会と私の折衷案的
リアルに回帰することの素晴らしさを説く結論」に対してNOと言っている映画であるということなのではないか、と私は思いました。

 

 

●揺れ動く理想と現実

 今まで新海誠作品は、上述した”私”部分に焦点をあてた作品が多かったわけですが、今作ではおそらく初めて権力、つまり社会の代表であるところの警察が介入してきます。

 そして物語が中盤になると、その警察を信じて捕まるのかそれとも彼女を信じて
助けに行くのかといった選択を迫られることになり、
イノセンス対インチキ」「理想対現実」「私対社会」といった二項対立が、
「彼女を選ぶのかそれとも世界を選ぶのか」といった二項対立と同時に語られるようになります。

 物語のリアリティは主人公の視点と警官の視点の間を揺れ動きながら進行していき
ます

 この「理想と現実の揺れ」は様々な形をとって、映画の最後まで続いていきます。

 例えば、それは、
編集長のおっさんの葛藤であったり、
空から二人が落ちていく時の離れたり近づいたりするカメラワークであったり
なかなか再会する気になれず、本当に自分がセカイを変えてしまったのかも迷っている主人公の葛藤
であったりするわけです。

 

 

●『天気の子』、その”傲慢”な帰着点

 『天気の子』はここから”傲慢”な結論にたどり着きます。

 主人公はあっけなくイノセンスの方を選びとってしまうのです。

 社会なんかクソ食らえ、僕は僕のために生きるぞ!と。

 これには驚きました。

 前作でここまで注目されてながら凄いことをやるもんだなあと思いました。

 でも、これは賛否分かれそうですね。

 

 

●個人的な意見としては…

 私としては『ライ麦畑でつかまえて』が人生で一番好きと言っていいくらい好きな
小説なのですが、
世界にも滅んで欲しいと常々思っていたので、この結末はこの結末でもいいのかな、という気がしました。

 「彼女がいなくなって、そのまま警察に捕まってしまう。結局彼女が本当に空に
昇ったのかは分からない」なんて結末もありなんじゃないかな、とちょっと思いましたが、そっちのほうが人を選びそうですね。

 

 

 

 

●追記…

 以上が観た直後の考察だったんですが、
ぶらぶら他の人の感想を見ていたらラストの彼女の祈りのシーンに何かありそう、
という意見に出会いました。

 祈りというとやっぱりライ麦畑でつかまえては祈りそのものじゃないですか。

 だからもしかすると、そこまで否定してるわけでもないのかなあ、でも彼女の祈りは
別に社会に向けてるわけでもないしなあ、なんて。

 

 『ライ麦畑でつかまえて』の解釈もあんまり自信ないしね。

 もっかい読み直します。

 

 ラストにライ麦畑でつかまえての”祈り”をなんとなく引用しておきます(ネタバレかも)。

 

Anyway, I keep picturing all these kids playing some game in this big field of rye and all. Thousands of little kids, and nobody's around―nobody big, I mean―except me. And I'm standing on the edge of some crazy cliff. What I have to do, I have to catch everybody if they start to go over the cliff―I mean if they're running and they don't look where they're going I have to come out from somewhere and catch them. That's all I'd do all day. I'd just be the catcher in the rye and all. I know it's crazy, but that's the only thing I'd like to be. I know it's crazy.

 

 

 なんど読んでも泣けますね。
 翻訳文の方も大好きです。泣きます。

 ということで。 

 

 

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

 

 

怪物はささやく 感想

怪物はささやく レビュー

 

大学の講義納めの寒い冬の日に、一人で観に行ってボロボロに泣きはらした映画。

 

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以下、レビュー

 

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 映画を観てこんなに泣いたのはいつぶりだろうというくらい泣いた。
 劇場の至るところからすすり泣きが聞こえてきて、貴重な劇場体験だった。
映画館で観られて良かった。

 最初怪物が出てきた場面では、怪物が話してくれる寓話から教訓を得て主人公が実生活の困難を乗り越えていく話だと思って観ていたのだが、どうにもその寓話に一貫性が見えてこない。
 3つ目の話に至っては、もはやおとぎ話ですらない。

 このあたりで舐めてかかっていた自分はかなり驚いた。
 怪物の話は教訓ではなく、主人公の中で渦巻く自己矛盾すら内包する複雑な感情の発露だったのだ、と(実はこの理解すら甘かったということを後から思い知らされる)。

 主人公は自分自身の物語を語る。
 それはつまり今まで自分でも受け入れられず、自分のものではない物語として語られていた3つの物語を受け入れ前進しようとすることだった。
 母親に参っている自分も、母親のことを大切にしたいと思う自分も、自罰を求める自分も、孤独な自分も、不安な自分も、全て。
 そして行動しろと怪物は言う(この辺は少し怪物に説明させ過ぎな気もしたけど)
 
 彼は自分を受け入れ、そして行動にしていく。
 並大抵のことではないが、彼はそれを乗り越え"成長"する。
 その彼を抱いている時の母の視線は、怪物に向けられている。
 それはつまり、息子の成長の象徴であり、その時の安心したような母親の視線と言ったら、あぁ…

 そしてラストシーンで、彼は母親の残した画集をめくっていく。
 そこにあったのは、今まで見てきた物語の数々だった。
 その後の彼の表情がまたたまらない。
 彼は、母親が確かに自分に寄り添ってくれてきて、成長を見守ってきてくれたことをしったのだろう(号泣)。

 子供から大人に成長するということは、ファンタジー否定することではなく、ファンタジーを受け入れていくということを描ききった名作映画だった。
(あらすじをなぞるだけの感想でごめんなさい)

 
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泣いた、泣いたと書いているけど、序盤は結構うとうとしてしまった。
でも泣いたのは本当。
もしかすると人生で一番泣いた映画かも。
 
Filmarksでも8000越えの視聴数なのでマイナーな映画ではないと思うけど、
ツイッターとかしていても名前を聞くことは少ない。
もっといろんな人に観てほしい映画なんだけどなあ。
 
怪物はささやく(字幕版)

怪物はささやく(字幕版)

 

 

悪人(感想)弱いものたちの為の恋愛映画

悪人 レビュー

 

 同監督の次作「怒り」を観たときは、なんだかんだと酷評してたような気がする
けど、今作はど直球でクリーンヒットした。

 今から思えば「怒り」もそんなに悪くなかったかも、とか調子のいいこと思ったり
している。

 

以下、レビュー

 

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 この映画を順風満帆に人生を送っている人たちがポップコーン片手にニヤニヤ笑いながら観ている姿を想像して嫌な気持ちになった。そんな惨めなルサンチマンを滾らせていてもしょうがないのに。


 人を殺すのは正しくないし、もちろん人を殺してしまったのなら素直に自首するのが正しい。でも、実は、全ての人間が、正しいことをしているだけで幸せに生きていけるわけではない。一部の人間は、他にはどうしようもなく、”間違った”選択肢を選んでしまう。選ばざるを得ない時がある。でも、そうやって、他に選択肢もなく選んだ”間違った道”も、その一部の人には幸福をもたらしてはくれるわけではない。正しく生きても、正しく生きなくても、この世界は過酷な場所でしかない。それはスパナで誰かの頭を殴ったって、何したって変わらない現実なのだ。


 殺された娘の父は「一つも大切なものを持ってない人たちがまるで強者であるかのように振る舞う」と批判していた。しかし、やはり、一つしか大切なものを持てないような人間は弱者なのだと思う。弱いから、うまく生きていけない。弱いから、誰かに依存しなくてはいけない。弱いから、幸福になることができない。自己肯定感の低い人間、自分の思考をうまく言葉にできない人間、自分を偽ることでしか社会に溶け込むことのできない人間、そういった弱い人たちだけが集まっては互いに傷ついていく。


 灯台に向かう道は風が激しく、二人で寄り添ってようやく立っていられる。僕らはそんな世界を生きているし、ここに希望はない。夜が明け、海が染まる、その一瞬にしか。

 

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 弱い人のための、上手く生きられない人のための恋愛映画でしたね。

 

 

悪人

悪人