……まで秒読み

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映画やゲームや小説などの感想を手当たり次第に書く、、、ことを目的に始めたいブログです。

【感想/レビュー】『パラサイト 半地下の家族』を語る

『パラサイト 半地下の家族』を語る

※ネタバレあり

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この映画の話をするにあたって、二通りの語り方ができると思う。

一つは、「映画の話」「映画を観て受け取ったこと」「映画館でこの映画を観るということ」の三つをはっきりと区別して語る方法。

もう一つは、全てをごちゃまぜにして語る方法。

私は後者の方法でいこうと思う。なぜならば、ここは私のブログだから(ブログは何を書いても自由!)。

『パラサイト 半地下の家族』のなんともいえない後味

ポン・ジュノ映画といえば、そのなんともいえない後味が有名だ。
本作もまたなんともいえない後味だった。

これを観て、どんな感想を言えばいいんだよ! ってな感じで。

 

でも、今作は、観終えてからしばらくすると、なんというか、その、なんともいえないような不安定な気分になった。

鼻の奥のほうには、あの例の臭いがこびりついている。
しょんべんと汗が入り混じりカラカラに乾いたあの臭い

新宿の駅の高架下を通ると、至る所でホームレスが寝転がっている。
あの時に漂ってくる臭い

私は、あの臭いにいつもぞっとさせられる。
ただ不快なだけではなく、そこには恐怖がある。

自分の体からも同様の臭いがするのではないかという恐怖。

私は、今は一応親の脛をかじっているなりに家にすみ、毎日風呂に入っているし、衣服も着替えがきく。
しかし、将来の不安はある。
大学を卒業して、職なし。希望なし。

明日、路上で寝転がっているのは私なのかもしれないのだ。

それなのに、私は、ホームレスたちを卑下する。
臭いといっては鼻をつまむ。
どうしてそんなことができよう、私と彼らは同じ穴のむじななのに。

そのことを思うと、ムラムラと自己嫌悪が立ち上がってくる。
この自己嫌悪というか同族嫌悪こそが、この「パラサイト」の後味の不安定な気持ちの正体なのではないだろうか。

同情しながら嫌悪し、卑下しながら共感する。
そのエゴイズムこそが。
お前はエゴの塊なんだぞ!と映画にチクチクと心臓をつつかれているような、そんな感覚。

同族嫌悪

同族嫌悪は、「パラサイト」という映画の、「観に行く」・「観る」・「感じる」が渾然一体となった映画体験を通してのキーワードでもある。

面白いのは、この映画は貧富の差を描いた映画だといいたくなるかもしれないが、実はそうではないところだ。

貧富の差を描いた映画ではない。

貧しさを描いた映画だ。「富める」は描いていないのだ。

作中でもいわれるように「富める人はいい人」だ。
彼らは、私が感じたような同族嫌悪のような自己嫌悪に陥ることはないだろう。

彼らは、ただ自分の人生をまっとうするだけ。
他者や自分に対する怒りや軽蔑などはない。

持って少しの困惑と取るに足らない軽蔑だけ。

同族嫌悪を持たない彼らは、映画の中でもとりたてて特異な感情を持つこともなく、ストーリー上でスポットライトをあてられることもない。

代わりに、スポットライトがあてられるのが、二つの貧しい「家族」である。

彼らは互いに軽蔑しあい、共感しあい、なんともいえない同族嫌悪の渦の中に落ち込んでいく。

1900円払って映画を観にいく

映画は高い。

1900円はあまりにも高すぎる(私は会員なので1000円で観られますがそれでも高い)。

映画を観ているということは、当然みんなそれなりのお金があるということだ。
食うや食わずの人は、多分映画を観には来ないだろう。

映画で「貧しいもの」が描かれるとき、それを観るとき、私はいつもなんともいえない気持ちになる。

 

私は決して豊かではない。
一冊の漫画を買うときに、一本の映画を観にいくときに、お金のことを思ってためらい、迷う。
そんな人間だ。

その一方で、私は映画を観にいける程度には豊かだ。

そんな私は、どの立場にたってこの映画を観ればいいのだろうか。

あの高い坂の上からか、それとも薄暗い地下からなのか。

わからない。
わからない。

私はどっち側?

 

 

追記

弱者と強者ではなく、弱者と弱者の対立を描いた映画が最近多い気がする。

「ジョーカー」もある意味そうでし、「アス」もそうだった。
日本だと「タロウのバカ」なんかもそうだ。

弱い者達が夕暮れ、さらに弱い者を叩く。加速していく暴走列車はどこへ進んでいくのだろうか。

革命は起こりそうにない、起きるのは多分崩壊だろう。

 

【感想/レビュー】アイリッシュマンは死生観を描いた映画だった

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人間は何をしても死ぬ

人間は何をしても死ぬのだということを改めて思い知らされた映画でした。

どんなに生を謳歌しても、結婚して子供を持っても、マフィアの頂点に登りつめて大金を稼いだとしても人は死にます。

そんなことは誰だって知っていることなのですが、この映画を観て初めてそのことに気がついたような気分になりました。

この映画、フランクの暗躍ぶりを描いたり、ジミーとプロの対立を描いたりするシーンにはかなりの尺が取られているのに、凋落していくのは本当に一瞬なので、余計にそんな気分になります。

人生は所詮牢屋の中

映画の中で、ラッセルやプロ、ジミー、フランク、みんな一度は牢屋に入ります。
それで途中こんな台詞があります。ムショの中はどうだったかという質問に対して「快適だったよ」的なことを言うんです。

これがなんだか象徴的な台詞だなと自分は思いました。

ムショの中って、マフィアなんですから本当にある程度快適なんじゃないかと思うんです。『グッドフェローズ』か何かにもそういう描写がありましたよね。
「外に出られない」ということを除けば、お酒も飲めるし趣味に時間を費やすこともできる。

これって、なんだか人生に似てませんか?

私たちは、人生の”外”に出ることはできません。代わりに人生の中ではある程度自由にできる。
言ってみたら私たちって、人生って名前の牢屋の中にずっといるみたいなものなんですよね。
それなのに必死に名声や地位にしがみ付こうとするマフィアたち。
観ていて虚しくなりますよね、どうせ”刑務所”の中で死ぬのに何やってるんだろうなーって。
フランクもフランクで地位にしがみつくわけではないですが、命令に従って右往左往、挙句の果てに苦し紛れに繰り出した言い訳が「家族のため」で、それも娘さんにすげなくされてしまいます。こっちもこっちで虚しい人生です。

というか、虚しくない人生なんてないんですよね多分、というのがこの映画の結末から私が感じ取ったことで。

生まれてから死ぬまでの、名前通りの終身刑
そう考え始めると息苦しくってたまらなくなりました。

意味があるのはカウンセラーか聖職者

生まれたら結局いつかは死ぬ。

人生はずっと牢屋の中。

この二つの命題から導き出される結論は簡単です。

人生において価値があるのはただ「いかにその命題から目をそらすか」のみ。

そうなってくると、終盤のフランクやラッセルの行動も納得ができます。
結局は神にすがるしかないんですよね。

そんなシーンを観ながら私は「もしどんな職業でも自由になれるんだったらカウンセラーか聖職者になりたいな。だって、どうせ死んでしまう人間のためにできることって、少しでも幸せに生きられるように手助けすることだけだから。この世界で価値のある職業ってきっとつまるところはカウンセラーか聖職者だけなんだ」と思いました。

反出生主義とアイリッシュマン

このところ私はどんな小説を読んでも映画を観ても反出生主義のことが頭をちらついてなりません。
「乳と卵」とか「消滅世界」を読んでそう感じるのならさもありなんですけど「三体」や「アイリッシュマン」にもそれを見出してしまうとなるとだいぶ重症です。

そんなわけで、今回も見つけました、反出生主義。

フランクは子供に執着します。娘のペギーですね。
ただ娘に好かれたい受け入れられたいという想い以外にも「自分の分身たる子供、しかも自分の生が終わった後もなお続く存在を感じて安心したい」という想いもあったのではないか、と考えるのは穿ちすぎでしょうか、穿ちすぎかもしれませんね。

でも「死んだ後も続く」といったフランクの台詞からはそんなことも感じさせられました。
フランクも、この無為しか存在しない生の牢獄に気がついていた。
それでなんとかその”外”に出る術を模索していたのではないでしょうか。

でも、反出生的な立場からすると、それはミスチョイスですよね。

だってどこまでいってもこの世は生の牢獄。子供を作ったとしても、さらにその牢獄の収容者を増やすだけですから。

観る者:まなざし

最後に少し明るい話をしましょう。

アイリッシュマン」は実は、今まで私が長々と書いてきたような映画ではありません(えー)。

いえ、全然見当違いというのもまた悲しいのですが、この映画はもっといろいろな解釈ができる映画だと思うのです。

ぽんっ、と「フランクの人生」を投げ出して見せたのが「アイリッシュマン」という映画。
それに対して解釈を与えるのが私たち観客です。

その証拠に、この映画はある構造が秘められています。

まず、入り口から割って入るようにしてフランクの人生に突入していくカメラワークから始まる映画冒頭、そして扉の外からそっとまなざしをなげかけるようなショットで終わる終幕。

そうです。この映画には「カメラ=私たち」が登場し、そして退場していくんです。最後はそっと”映画の外”からフランクの人生を眺めて終わります。

私たちは映画を観ることによって擬似的に”生の牢獄”の外にいることができる。
私たちは映画を通して「フランクの人生」から意味を見いだすことができる。
いやー、映画っていいものですね。

私の性的嗜好の遍歴

 

※この記事では、とにかく赤裸々に性的嗜好の遍歴について書き連ねます。R-15な記事です。
中には、実在している人物に向けられた性的興奮についての記載もあり、読んでいて不快に思われる方もいるかと思います。

読む際には、十分にご注意をお願いいたします。

 

幼少期

人生で一番古い性的興奮の記憶は、幼稚園時代まで遡る。

それは夜の夢だった。幼稚園のクラスのみんなが、男女で入れ替わってしまう、という夢を見た。ただそれだけの夢だった。

しかし、起きた時、私は勃起していた。親に、固くなってしまって痛くて眠れないという話をしたのを今でも覚えている。恥ずかしい記憶だ。

冒険遊記プラスターワールド

冒険遊記プラスターワールド』というアニメ番組があったのをご存知だろうか。  

 

ざっくり、どういうアニメだったかを説明すると、

デジモンポケモンのパクリのような世界観なのだが、
人間とプラスター(謎の生物)がプラストオン(合体)するという設定がある。

例えば、主人公トウマと相方ビートマがプラストオンすると、二人が合体して合いの子みたいな姿に変身するわけだ。

 

いつもは

トウマ(主人公)とビートマ(いかにも”男の子っぽい”イメージのデザイン)

デリィ(ヒロイン)とハーリア(”女の子らしい”デザイン、蜂をモチーフにしている)

のペアでプラストオンしている。

しかし、
あるエピソードでは、
アクシデントによって、それぞれの相方と離れ離れになってしまい、相方が入れ替わっている状態になる。(トウマとハーリア、デリィとビートマのペアでそれぞれ行動するわけ)
プラストオンしないと満足に戦えないため、しかたなくプラストオンする主人公。
そうすると、主人公はその”女の子らしい”見た目になってしまう、という話。

こんなの絶対性癖歪む……。

 

小学生時代

小学生時代の主な記憶といえば、やはり「女装に対する性的嗜好の目覚め」だろう。

クラスの女子と自分のシャツが同じだったとき、そのシャツを着るたびに密かに興奮していたのを覚えている。(今思えばユニセックスなシャツだったのだ)

スイミングスクールの帰り道

印象深いのが、スイミングスクールの帰り道のエピソードだ。

その時、私は靴をなくしてしまった。
プールに入る前には確かに下駄箱に入れたはずの靴。誰かが間違えて履いて帰ってしまったのだ。

そこで私は仕方なく、先生に訴えでた。

しかし、ないものはしようがなく、先生は私に代わりの靴を貸し与えてくれた。

ここまで読んできた猛者であれば、もうお判りであろう。
それは、女の子用の靴だったのだ。

といってもピンクのいかにもといったようなものではなく、水色の靴で、言ってみればこれも男女どちらでも履けるようなものではあったのだろう。

しかし、私の目にはいかにも女子用の靴であるように映った。

私は帰り道、終始落ち着かないような心持ちになって帰った。

 

 

もののけ姫』と『ちびっこ吸血鬼シリーズ』

これは、未だに性的興奮なのかどうか、判断がつかないのだけれど、
私は『もののけ姫』のアシタカがサンに認められて、里から森の住人になるというシチュエーションでも性的興奮に似た何かを感じていた。

それから、ちびっこ吸血鬼シリーズを代表とする吸血鬼モノ。
血を吸われて、闇の血族になる。何かに認められて、不可逆的な、なにか別のモノになる。誰かの特別になる。

そういうところに惹かれたのかもしれない。

 

 

ひぐらしのなく頃に

ひぐらしのなく頃に』というゲームをご存知だろうか?

ご存知だろうかなんて言っておきながら、私は漫画しか読んだことがない。

しかし、この漫画こそが私の性の目覚めの重要なターニングポイントである、というのが歴史の共通認識だ。

主人公の圭ちゃんが、部活動で女装をして、賭けトランプをするのだがイカサマでボロボロに負けてしまう。その結果、罰ゲームを受けることになるのだが……というエピソード。

圭ちゃんは、メイド服やらなんやらを着させられ、強制的に女装させられることにある。

この”強制的に”というところがキモなのだが、とにかく私はひぐらしの漫画で初めて自分が女装シチュが好きだということを自覚したのだった。 

 (綿流し編だったかな? 違ったかな?)

その後

親のエロ本

親のエロ本を盗み見る、というのはあるあるのエピソードだ。

私が人生で初めて見たエロ本もまた、親のものであった。

題名は今でも覚えている。

『メタモルフォーゼ』。エロ漫画だ。

自殺未遂で意識を失い、気がついた時には病室に、しかし体は見たこともない女性の姿で……。という話。

これを読んだ頃、私はまだ精通しておらず、オナニーという言葉すら知らず、エロという概念すら知らず、読むとなんだかそれが固くなっておかしな気持ちになる物語、という感覚でなんども読んでいたのを覚えている。

しかし、子供ながらに後ろめたさはあったのだろう、その頃になるともう、親には打ち明けたりはしなかったのだが。

性癖の遺伝

どうも親もTSが好きらしいのだ。

とすると、性癖は遺伝するものであるのかもしれない。

なんだか嫌だなあ。

でも女装だけは自信を持って言える私だけの趣味なのだ。女装はいいものだ。

精通

精通は夢精だった。これもよく覚えていて、しかしこのエピソードは珍しく女装もTSも関係ない。

どうも淫夢と性癖とはあまり関連がないのではないか、というのが私の持論だ。

私の友人にも、牛乳パックに穴を開け、そこにそれを突っ込んでいる夢を見て夢精した、という人物がいる。

私も、謎のおじさんから逃げ惑い、逃げあぐねた末に女性用トイレに入りそこで用を足した夢で夢精したことがある(これは若干性癖とかかっているか)。

閑話休題

その時の夢は大して面白くもないのであっさりと。

クラスメイトの女子が、雨に濡れながら車道でくねくねとしている、という夢だ。

そのクラスメイトというのも好きでもなんでもない人だったわけで、夢精とは不思議なものだなあとしみじみ思うのである。

初めての自慰行為

私は人から浮いていたため、仲の良い友人は少なかった。ADHDだったからだとかなんとかとかあるのかもしれないが、今でもよくわからない。

とにかく友人が少なかった。

それはどういうことかというと、ホモソーシャル的なつながりもなかったということであり、必然、私の性的な知識は小中の頃には随分と遅れており、自慰行為についても初めて理解したのは随分とあとになってからであった。

初めての自慰行為。これもよく覚えている。

それはまたもや親のエロ漫画からであった。

題名は『ミカエル計画』。

これは押しも押されぬTSFの有名作であり、この中の口淫のシーンが私の人生初射精だ。

漫画を読みながら、例のごとくなんだか不思議な気分になっていた私はふと思った。

(この漫画で出てくるみたいに、自分のそれをこすってみたらどうなるのだろうか)

そして漫画の見よう見まねで試してみたところ、精液が飛び散ったのだった。

 

なんだか、自分には友人がいなかったことを示す寂しいエピソードではあるが、
中学生あたりの自分の粗野な性的消費に関わらないで済んだと思うと若干の喜ばしさも感じなくはない。

 

その後のその後

じゃあ、そんな過去をへて、今はどうなったのか、というと大差ない。

女装ものとTSものでしか抜けない体質になった。

普通のエロ動画は滅多に見ないし、仮に見るとしても、女優側に感情移入して、なんだったら自分で勝手にTS的な裏設定をつけながら見る、といった歪んだ見方をしている。

 

あと、とにかく強制されるのがいい。

無理やり女性にされたり、無理やり女性用の服装をさせられたり、それから男に犯される。
そういう話が好きだ。

ここにはどういう心理が隠されているのだろうか。男性のままでは愛されなくても、女性になったら愛されるに違いないという偏見が潜んでいるのだろうか。

本当は男に犯されたいのに、潜在的ホモフォビアが邪魔をしていて、合理化するために理由付けを行っているのだろうか。そのほどはわからない。

 

ただ私は自分を偽りたくはないなと思ってこの記事を書いた。

私の性的嗜好は、女性性を消費しているかもしれない。
自分に正直ではないかもしれない。
不誠実なジェンダーバイアスを受けているいるかもしれない。

それでも、私は誠実でありたい。その気持ちだけは嘘をつきたくない。

恋愛感情がないと思っていたけれど

恋愛

恋愛感情の定義

恋愛感情
:他者を好きになるという感情。
 以下の⑴から⑸のうちのいずれか、または複合的な想いが生じている状態を示す。

⑴相手に魅力を感じる。
⑵相手と体験を共有したい。
⑶相手と性的な関係を結びたい。
⑷相手には誰よりも自分のことを考えていて欲しい。
⑸相手に幸せになって欲しい。

 

 なんてのを考えてみた。

どうですか? 
わりと普遍的な定義だと言えませんか?
最大公約数的じゃないですか?

恋愛感情の話

今まで自分には恋愛感情がないか、あるいはあるとしてもすごく薄いのだと思っていたけれど、もしかしたらそれは間違えなのかもしれない。

そんなことを『やがて君になる』を読みながら「恋愛とは何か」についてつらつらと考えている時に思った。

やがて君になる』は自分にとって恋愛とは何かを向き合うのに、最良の教材だろう。

 

さて、私にも恋愛感情があるのだという話。

というのも、ドキドキしたりすることはあるのだ。
もっと一緒にいたいと思ったり、話をしてみたいと思ったりすることもある。
それを恋愛感情というのだとしたら、私にも恋愛感情があるのだ。

もっとも最近は人との関わり自体が少なくなってしまっているので、そういうことを感じる機会もなくなってしまっているわけだけれど……。

 

「じゃあ、君はまるっきり普通の恋愛指向を持った人間なのかい?」

とそう訊かれると、それにもまた素直には頷けない。

人と恋愛やなんかの話になるたびに、自分は人とは違うと感じる。

平均的な恋愛指向を持った人間、というのも変な話だけれど、そういうのを想定するとしたら、私は標準偏差で二個分は離れていると思う。そう思う。

 

その違和感の原因が何かということを考えた時に現れるのは「他者に対する執着」だろう。

私は、恋愛感情は人並みにあるけれど、他者に対する執着が異常に低いのではないだろうか。

 

私は、私の好きな人と付き合いたいと思わない。

私は、私の好きな人が他の人と付き合うことになったとしても何も感じない。

私は、私の好きな人ともう二度と会えなくなったとしても寂しくはない(残念だとは感じるかもしれない)。

私は、私の好きな人と性行為をしたいとは思わない。

私は、私の好きな人が自分のことを好きになってくれなくても構わない(好感を持たれていたら、それはそれで嬉しいけれど一番である必要はない)。

 

そんなわけで私に「好き」は、わからない。

 

ひねくれた話

とか言ってみたけれど、もしかしたらこれらは全くのフェイクなのかもしれない。

私は恋愛がわからない異常者面をして、誰からも好きになってもらえず、誰とも付き合うことのない自分の人生の慰めにしているだけなのかもしれない。

案外、誰かと付き合うことになりました!なんてことになれば(いろいろな意味でそれは難しいだろうけれど)、
明日には「いやー恋愛っていいものですね、付き合うって最高ですね」とほざいているかもしれない。

全く最低な奴なのだ、私というのは。

 

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デスストランディングの革新性——移動することの面白さ——

※ネタバレほぼなし

※ チャプター3時点の感想です。

 

 

デスストランディングはこういう人にオススメ

・ちょっとだけアウトローな山登りが好きな人

・子供の頃道無き道を自分で開拓しながら野山を駆け回るのが好きだった人

とにかく、デスストランディングの移動は楽しい。

「こっちからだったら登りやすそう」とか「こっちの道だったら歩きやすそう」とか。
そういったことを瞬間瞬間に考えながら、なるべく楽に、早く歩ける道を考えていく。

それ自体が、そもそも楽しい。

子供の頃、藪の中を探検したことはありますか? 
裏山の道なき道を歩いたことはありますか?

山を下るとき、ちょっとルートから外れてショートカットしたことはありますか?(マナー違反ですけどね)

自分で新しい道を開拓して、少しでも短縮できた時に喜びを感じる。
あの原初の喜びこそがデスストランディングのゲーム性の根幹にあるものだろう。

デスストランディングの面白さ・革新性

今までになかった面白さ?

じゃあ、そういった面白さって今までなかったものなのか? というとそんなことはない。

ゼルダだって、RDR2だって思い返せば、移動の最中の瞬間瞬間の判断とは心地の良いものだった。
しかしそれはいつしか退屈になってしまう。

どうして退屈になってしまうのだろうか? 

どうしてデスストランディングはそれが楽しいのだろうか?

その疑問に答えるためには、「ゲームの楽しさの本質とは何か」をまず考える必要があるだろう。

ゲームの楽しさ、とは

少なくともオフラインのゲームの楽しさとは「こんなことできちゃう俺ってすごくね」という達成感にも似た感情にあると、言って良いのではないだろうか。

例えば、強い敵を倒したり、困難なダンジョンを制覇したり。

それを乗り越えたときに「こんな難しいことができちゃう俺ってすごい」と感じる、あの瞬間。

あの瞬間こそがゲームの普遍的な楽しさの一つである、と言えるのではないだろうか。

デスストランディングの革命

そしてその「俺ってすごくね」を感じさせるのは、もちろんゲーム内で報酬が提示された瞬間である。

今までのゲームでは報酬の提示は、ミッションの終了時になされることが多かった。

つまり、「こんなミッションを達成できてしまう俺ってすごくね?」と感じさせる瞬間がところどころに用意されており、それを繋ぐのが「移動」であったわけだ。

しかし、今回デスストランディングにおいては報酬が与えられるのは「移動」に対してである。

これによって、今まで見落とされがちだった「移動の楽しさ」が強調されて現れてくる。

「こんな移動を成し遂げられちゃう俺ってすごくね?」と。

ゆえに、デスストランディングの移動は楽しいのだ。

もちろん他にも

もちろんデスストランディングには「移動」を面白くする工夫がなされている。

操作性の高さや、起伏やバリエーションに富んだマップなどなど。

なかでも、重要なのが「同じ道を二回目に通る時は全く違ったものが見えるようになる」という点だろう。
デスストランディングにおいて、マップを解放することは他の人と擬似的にマップを同期することと同義だ。

はるばる道を歩き、ステーションにたどり着き、マップを解放する。
そうすると、帰り道は他の人たちの目標を頼りに帰れるようになる。
この一度で二度楽しめる工夫のおかげで、マップは新鮮さを損なわない。

さらに言えば、荷物の重量や持っている装備によっても、マップはその姿を変えて映ることだろう……。

デスストランディングの起こしたもう一つの転倒

見落とされがちな革新性:マップ解放

デスストランディングは「移動」に革命を起こした。

今までは手段でしかなかった「移動」を目的に変えるという主従関係の転倒を見事に演じてみせたのだ。

しかし、デスストランディングの起こした転倒は「移動」だけにとどまらない。

オープンワールドにおけるマップの解放、これこそがデスストランディングが示したもう一つの転倒である。

今まで、オープンワールドにおけるマップの解放は、その後の探索を容易にするための下準備であった。

しかし、デスストランディングではマップの解放はゲーム内における主目的として定められている(言ってしまえばアメリカ全土のマップ解放を目指すゲームなのだ!)。

ここでも主従関係の転倒が生じている。

では、ここから何が言えるだろうか。

デスストランディングが示した新たなオープンワールドの形

デスストランディングは「オープンワールドで退屈なところを全部楽しいところにかえてしまおう」という発想から作られたゲームなのではないだろうか。

マップ解放や移動というのは、ともすれば退屈に感じてしまいがちな要素である。

これらの退屈な要素を全部目的にしちゃえばいいじゃん! 
そうしたら退屈なところなくなるから最高に違いないね!

ということを考え、作られたのがデスストランディングなのである。

これは「スパイダーマン」が目指した、あらゆる面倒な概念を単純に簡易にすることによって、退屈さをできるかぎり排除しようとしたゲームデザインと真っ向から対立するような思想だ。

どちらがよりよいと優越をつけるものではないが、とにかくデスストランディングが新しいオープンワールドの形を示したことだけは確かだろう。

 

 

 

映画「ジョーカー」を二度観た

ネタバレ注意

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 感想

大学院の出願期限を勘違いしていて、受験できないことが判明した日の夜。

私の頭はおかしくなった。

雄叫びをあげて。手近なところにあったティッシュ箱を壁に投げつけ。積み重なっていた書類を乱雑に手で崩し。本を投げ。壁を殴り。心の底から泣いた。

その時、私は泣きながら笑った。

私の今までの人生はなんだったのだろう、と。

私はこれまで、人一倍勉強してきた。その自信はある。

中学受験をし、高校受験をし、大学受験をし、ひたすら勉強してきた。わけも分からずに。

その「わけも分からずに」が悪かったのだ。私はいつだって苦しみの最中にいた。この苦しみから逃れたい。その一心で勉強を続けた。いつかは、この苦しみの果てに「自分の好きなこと」を心置きなくできる日が来るのだと。

その夜は、その夢が崩れ落ちた夜だった。

私は泣きながら笑った。馬鹿馬鹿しい。私はまるっきり道化だったではないか。本当は得られたはずのその時の喜びをなげうって勉強して、苦しむだけ苦しみ、その果てにあったのは「勘違い」という間抜けな失敗。

人生全てが終わったように感じた。

人生全てが馬鹿馬鹿しい笑いぐさだったように感じた。

劇場で「ジョーカー」を観ながらその夜のことをなんとなく、思い出した。

 

私は「ジョーカー」一周目を見た時。これは”変革”の映画であると感じた。

アーサーという一人の男が引き起こしたちょっとした事件が、やがては嵐となり、社会を変えていく。そういった映画だと思った。

終盤、アーサーを乗せたパトカーに車が突っ込むシーン。そしてそこから街が荒れ狂うシーンで私は、ジョーカーは良い気分になっていると思っていた。

強者に復讐し、しがらみから解き放たれ自由になったのだと。

 

しかし、二周目を観た時、私の目には全く別の物が映った。

アーサーは泣いていた。

TVのショーに呼ばれ、今までの自分の境遇を語った時、アーサーの目には涙が浮かんでいた。

自分が三人の証券マンを撃ち殺したと告白した時、アーサーの目は全然誇らしげではなく、泣いていた。ちょうど、ピエロの顔が笑いながら泣いているように。

どうして私は一周目、アーサーの涙を見落としてしまったのだろうか。

これを変革の映画だと思ってしまったのだろうか。

 

アーサーは映画の中で様々なシーンで、踊る。

階段を降りながら「ジョーカー」となっていくシーンでも踊る。

ラストのパトカーの上に祭り上げられたシーンでも踊る。

この踊りは何を表しているのだろうか。

踊りは非言語的表現であり、言語的表現と異なり、観る者によって多くの解釈を与えることができる(それはまるで映画そのものであるかのようだ)。

今日の私の目には、アーサーのそれは、”哀しみ”であるように映った。

パトカーの上、多くの人たちの声援を浴びながらも、アーサーの心は何一つ満たされない。だって、そうだろう。アーサーの人生は何一つ救われていないから。ちょうど私の人生が何一つ救われなかったように。それなのに、喜べって。それは無理な話だ。

そうしてアーサーは最後に、自分の指で、自分の血を使って、笑顔を描いてみせる。

泣けないほど辛い時は笑うしかない。

だって人生は喜劇なんだから。

 

 

うつ病 その3

何もできない

 

 

無価値感がひどい

何をやっても無意味に思える。

いや、「何をやっても」というのは、自分を過大評価した表現だ。

実際は、何もやっていないのだから。

 

やる前に無価値であるように思えて、結局何もできない。 

ゲームをしようと思う

例えば、モンスターハンターワールド。

でもその先に何があるのか考えてしまう。

たくさんアイテムを集めて、強い武器を作る。でもその先に何がある?

ゲームを起動しなくなれば、そんなものはすべて無価値になる。

映画を観ようと思う

でもその先に何があるのかと考えてしまう。

こんな言い方は正しくないのは、映画好きの端くれとして頭ではわかっているつもりではあるのだが、
「面白いと思えるような映画は観尽くしてしまった、今後映画を観ても得られるのは”なんとなくの楽しさ”だけなんじゃないだろうか」
そんな風に思ってしまう。

どうせ映画を観たって、今の自分には楽しむことはできない。

 

 

そもそも
私にとって価値のあるものとは、

①お金

まずは、お金 。

お金はあっても困らない。

お金があればいろいろなことができるようになるし、何よりも「安心」が得られる。

「安心できる」とは「辛くない」ということであり、辛くないことは私にとって何よりも重要なことの一つだ。

②アウトプット

面白いものを作れる、というのもまた、私にとっては重要な価値だ。

面白い小説を書ける。

面白い批評を書ける。

面白いブログ記事を書ける。

それは、私にとって無条件に意味のあることだ。

③面白い創作物に触れること

これは言うまでもない。

④コミュニケーション

コミュニケーションといってもただのコミュニケーションではない。

創作物を介したコミュニケーション。これが楽しい。

例えば、本を読んであーだこーだ言い合ったり、映画を観て議論を交わしたり、そういうこと。

 

 

見えてこない価値までの道筋

以上が、私の持つ「価値」なのだが、これにたどり着くというのが、私にとっては非常に難しい。

①お金を得るには、

お金を得るには、道筋は二つ。

就職活動と院進して資格を得ること。

これは、やっているが、どちらも社会不適合者の私には難しいことだ。

面接までこぎつけるのにも大変な努力がいるし、全く受かる気配は見えてこない。

②アウトプットするには、

とにかく書くしかない。

今やってるように。

しかし、それで本当にうまくなるのだろうか。

なんだか、これについては”才能”というものがあるような気がしてならない。

そして私に才能があるかというと……どうもなさそうな気がしてならない。

悲しいね。

あとはインプットすること。つまり③。

③楽しいことに触れるには、

とにかくいろんな創作物に触れるしかない。

しかし、なんでだか知らないけれど、最近心の底から楽しめる創作物に出会えていない。小説でも、映画でも(映画館はちょっと楽しいんだけど、お金がかかる)。

これは辛い。

面白い作品に出会えなければ、他の作品も漁ってみようというモチベーションも低下してしまう。

④コミュニケーションをするには、

友達を作る必要がある。

つまりコミュニティに飛び込む必要がある。

そのためには、お金と安定した社会的地位が必要。

つまり、①。

 

 

てな感じで、どん詰まり。

どうしたらいいの、未来。

ねえ、誰か助けてお願い。